写真集の愛好家には必ずといっていいほど直面する命題が存在する。それは、写真家自身のこだわりの結晶である写真集は単体の一冊でもそれなりの重量と質量であることがほとんどなのだが、好みのビジュアルのものを収集していく結果、とてつもない物理スペースを要することになるのだ。
しかし、だ。数奇なもので、そもそもマニアがマニアとなった由縁たる、自らの写真観を一変させられた「運命の1冊」というべきものが写真好きであれば人それぞれにあるものなのだ。その1冊を基準にして、その幻影を他の写真集の中に求めているのかもしれない。そう、それはまさに甘酸っぱい記憶とともに誰もが抱える初恋の感覚に近しい。それがどんな1冊であれ当人にとっては他者が侵し難い神聖なものであり、憧れであり続けているものなのだから。
俺にとってのその1冊は、Laura El Tantawy(ローラ・エル・タンタウィ)というイギリスの女性写真家が2015年に出版した『In the Shadow of the Pyramids』だった。自身のインディペンデント・レーベルから全世界に向けて僅か500部しか発行されなかった写真集だ。両親がエジプト人で自身も幼少の頃をエジプトで過ごしており、自らの記憶とルーツを辿るように訪れた彼の地で遭遇した「アラブの春」に端を発するエジプト革命。2012~2014年における大規模デモの発生から政権崩壊、その後までを追った重厚なドキュメンタリーである。
チュニジアの物売りの青年による抗議の焼身自殺から始まった政権への抵抗運動は、中東の周辺諸国へと飛び火し、各国の独裁政権を打ち倒すことになった。しかし、圧政から解き放たれ成し遂げられた民主化の果ては、対価としてイスラム原理主義の台頭を許すことになり、結果、イスラム国という過激派組織をも生みだし、ジハード(聖戦)の名の下にふたたび世界を混乱の渦の中に巻き込んでいくことになった。
この写真集が映し出しているのは、そうした混沌そのものだ。変革への希望と高揚、そして団結した大衆の圧倒的な熱気によって幕を開け、ローラもまたそうした劇的な瞬間と熱狂をエモーショナルに、スタイリッシュにカメラを向けることで序盤を形作っている。しかし、革命が進行していく過程で理念と情熱だけで突き進むことのできない、多大な犠牲を目の当たりにすることで撮影者のローラ自身にもある種の戸惑いが生じるようになってくる。これが果たして本当に、あれほどまで自分が記憶の中で美化していた“思い出の地”の姿なのか。
彼女自身の逡巡が市井の人々に漂う厭世感や悲壮感ともリンクし始め、彼女の視点もより内省的になりパーソナルな方向へと向かい出す。人間存在の無力さ、儚さ、不条理さ。そういった感情すべてがない交ぜになって、最終的には打ち砕かれた追憶の理想郷の現実から、目を背けることなく真っ向から捉えることで自らケリをつけている。けっして気持ちのいい終わり方ではないものの、読了後に深い余韻と現実に立ち向かう幾ばくかの勇気を与えてくれる。
斬新なビジュアルで魅惑し、ひたすらに直視することを強いる、そういうタイプの写真集だ。そう、良い写真集というのは鑑賞するにもパワーを要求し、すべてを読みとおした後になんともいえない徒労感を感じさせる。そこに写っているものと、写ってはいないがそこで意味されるもの。写真家が埋め込んだメッセージを読み解く力。本当の意味で写真と向き合うということは、そーゆうものなのだ。
写真集が出版されるや、その年のおもだった賞を総なめにするなど世間的にも大変に評価の高かった1冊。俺のファーストインパクトは440ページにも及ぶ大著ながら、斬新なフレーミングと鮮やかな色彩感覚が視覚的な快楽となって、不謹慎ではあるがページをめくる手がとまらなかった。ローラが巧みだったのは真性のドキュンタリーフォトに、ファッション的な美的感覚を持ち込んだことだ。それが自身の揺れる感情の動きやアラブ世界特有の宗教的な様式美とも出会い絶妙にマッチしているのだ。伝統的な「ナラティブ」の手法の中に「タイポロジー」の要素を挿入したりと、編集の妙も手伝っている。
「アラブの春」を題材にした作品集は複数の写真家が発表しているのだが、一際『In the Shadow of the Pyramids』が卓越していたのは、あの凄まじいまでの混沌の中に実は秩序を見出していたからだと思う。「創造的破壊」という言葉が存在するように、何かを生み出すためには何かを壊す必要があるのは世の常で、彼女の写真には次なる一歩を感じさせる"何か"がコード(符号)として埋め込まれているのだ。だからこそ、彼女が写しとった写真には黄金比的な、ある種の構図の法則性が見てとれる。どんな凄惨な場面であっても、1枚1枚が美しく所謂ハズレのショットは1ページとして存在しない。
まさに俺にとって完璧すぎる1冊で、物質への執着を捨てた今でも手放すことのできない、写真観のすべてがここに詰まっている。よくよく思い出してみると出会いからして奇跡的なことだったのだが、きっと誰にとっても運命の1冊とはそういうものなのだろう。ちなみにこの写真集は彼女にとっての処女作で、次はどんなプロジェクトになるのだろうかと注視していたら思いのほかコンセプチュアルな路線の作品集を2017年に発表した。できることなら彼女の骨太なドキュメンタリー作品をまた見てみたいと個人的に願うばかりである。
次はあんたの番だ。あんたにとっての"運命の1冊"の話を聴かせてくれないか。
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※参考文献↓

「アラブの春」の正体 欧米とメディアに踊らされた民主化革命 (角川oneテーマ21)
- 作者: 重信メイ
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