4月17日、ヴィッセル神戸のフアン・マヌエル・リージョが監督を解任された。ようやくJリーグが面白くなってきた矢先でのショッキングな事態に、いろいろ思うところはあったのだが、正直うまく言語化できないでいた。なぜ言語化できないでいたのか。それは稀代の名将リージョが手の内をまったく開陳していない段階での、あまりに早すぎる解任だったからにほかならない。
三木谷氏の豪腕によって前進するかのように見えた日本サッカーの未来が、またも世界基準から遠のいてしまったことは確実だ。この名将を殺したのは誰か。それを追求することなしに、もはや日本サッカーの更新はありえない。
最後の試合となったJリーグ第7節でのリージョの様子は、あきらかにいつもとは違っていた。あまり感情を顕にすることなく、ベンチから静かに戦況を見つめる独特なダンディズムを醸していた直近の彼とは対照的に、失点シーンでは自らベンチ前でリアクションし、執拗に檄を飛ばしていた。ここから読み取れるのは、おそらくこの時点で試合の結果如何によっては契約の打ち切りを、すでにフロントから示唆されていたのではないか。この試合で勝つことができなければ契約を解除する、そう仄めかされていたのではないだろうか。
おそらく監督のリージョとフロントとのあいだで、時間軸の想定に相違があったものと思われる。急速に「バルサ化」を推し進めるヴィッセルではあるが、その思想を根本からインストールするにはそれなりの時間がかかる。いくらリージョが短期間でチームにスタイルを確立させるのがうまいとはいっても、それが単に勝率を上げろというオーダーと、バルサにしてくれというオーダーとではまったく要する時間が異なる。6節までのリージョはあきらかに選手の覚醒を、選手自身の気づきを地道に待っている状態であったことが、その様子から窺えるのだ。それに対して、性急な三木谷氏がしびれを切らしてしまったのが実情ではないだろうか。
戦術家というよりも、どちらかというとクライフ以来のラディカルな思想家としての色合いが濃いリージョ。「フォーメーションなど、ただの数字の羅列にすぎない。重要なのはサイドバックやインサイドハーフといったポジションではなく、それぞれの役回りなのだ」という発言のとおり、現代サッカーを加速度的に進化させたグアルディオラによるペップ・コードの重要な構成要素のひとつ、「ポジショナル・プレー」という難解極まりないコンセプトの生みの親でもある。
選手経験はなく、10代ですでに指導者の道に入り、着々と頭角を現した伝説的指揮官はバルサのサッカーに魅了され、バルサのサッカーを追い続けてきた。バルサを理論的に再現するために心血を注いできた人生であるだけに、バルサの再現を掲げるヴィッセルにとってはこれ以上ない第一級の人選だったといえる。
ここ最近のヴィッセル不調の原因、監督解任のきっかけがセルジ・サンペールの加入にあるような言説によく出会うのだが、俺には前評判どおり、リージョのサッカーにおいてサンペールはそれなりに機能していたように思える。局面に応じて中盤の底から緩急つけてパスを散らし、ポゼッションを循環させ調整する。チームの心臓たるピボーテは、まさにポゼッションサッカーの要だ。
長短織り交ぜたパスとアクセントのドリブルで、攻勢においてはサンペールも巧みにリズムを操っていた。指摘されているような守備への貢献を、もともとリージョも課していなかったのではなかろうか。どちらかといえば、かつてのピルロのような、最後尾からの組み立てによる多彩な引き出しを、レジスタとしてのタスクに期待していたように思えた。少なくとも山口蛍には欠けた資質が垣間見えていたのではないか。
守備面についてはサンペールのタスクをカバーする位置づけの山口、そして西・初瀬の両サイドバックのポジショニング、役回りの受け渡しにおいて、なんらかの認識や意図の食い違いがあったものと見ている。
そうでなければ、開幕初戦から再三にわたって攻略され続けてきたディフェンスラインの裏のスペース、CBとSBのあいだに位置するハーフスペースが、修正を加えるでもなく放置され続けた説明がつかないのだ。これまでの失点シーンを見ると、悉く同じパターンによって守備が崩壊していることがわかる。そんな傍目にもあきらかな欠陥を、リージョほどの理論家が何も手を加えずに、愚直にも同じ過ちを繰り返したとは考えにくいのだ。
当初は「日本代表監督を狙いたい」と公言していただけに、長期政権を構想していただろうリージョが、結果よりも試合内容に重きを置いていたことはあきらかだ。もちろんプロである以上は結果にはこだわらなくてはならない。だが、日を追うごとにリージョの哲学は浸透しはじめていた矢先、この短期間の中でも古橋のように見事に覚醒し、脱皮を遂げた選手も存在する。
そして確実に高まっていたポゼッション率とは反比例して、選手一人あたりの平均走行距離はJリーグ中でも際立って少なかったはずだ。一人あたりの走行距離増加による献身性を強いるモダンサッカーにおいて、もしかするとリージョはアンチテーゼとしての、より少ない走行距離による省エネで支配的なサッカーを提示していたかもしれない。そう考えると、日本サッカーにおける新たな可能性の喪失はインパクトが大きい。
いつだって新たな可能性を潰すのは、現場を理解していない横暴な資本の論理だ。壮大な戦略が一夜のうちに成し遂げられるわけがないのだ。リージョを招聘した時点で、彼に長期政権を委ねる覚悟が必要だった。
流行り物のように取っ換え引っ換え首をすげ替えた末に、バルサのようなドリームチームが出来上がったのではない。そのような発想はどちらかというとレアルの専売特許だろう。何を以てしてドリームチームがドリームチームたりえるのか、偉大な指導者の首と引き換えに三木谷氏にはよくよく考えてもらいたいと切に願う。

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