人は惰性で生きる。変化を嫌うものだ。しかし、時に焦燥感に駆られ、冒険に繰り出そうとする。または不意に今の環境から抜け出し、まったく違う土俵の上に立ちたいと願うことさえある。しかし、多くの人が何も捨てることのないまま、今そのままの状態で、人生の「あちら」側への冒険へ繰り出そうとするのである。
人というのは不思議なもので、「得る」ことよりも「失う」ことに対して過敏になる。目の前に得られるものが見えていても、なかなか自分の持っているものを手放せないものだ。しかし、よく考えてほしい。たとえば1,000万円の売上を作りたいのであれば、少なくとも100万円程度の販促などの費用は必ずかかるものだ。実業ですら10倍のレバレッジが必要になるというのに、多くの人はそれが「投資」ではなく、「経費」として考えてしまう。つまり、100万円の決断ができない者に1,000万円以上のお金など生み出せるはずがないのだ。
俺はよく仕事柄、「どうしたら成功できますか?」と質問を受ける。そんな時決まって云うのが、「決断すること」なのである。簡単な話である。成功と位置づけるものに見合った原資や時間、労力を用意するだけでいい。あとはその分野のプロフェッショナルに教えを請うなり、多少の費用を負担して任せてしまえばいいのだ。誰でも分かるロジックなのだが、自分が持てるものを失う恐怖に苛まれ、多くの人が決断する勇気を持てないでいるのだ。生きていくために失くてはならないものなど、そう多くはないというのに…
だからこそ成功者の資質を問われれば、真っ先に答えるものが「覚悟」だ。飛び込む覚悟、手放す覚悟…。自分が何も差し出すことなしに、望むものが手に入るほど都合のいい世の中ではない。にも関わらず、多くの人は無償の施しを求めるものだ。
たとえば「キャリアアップのために転職を考えています」という人の多くが、キャリアアップといいながら現状よりも高待遇を求めていることが多い。しかし、よくよく考えてみれば仕事を学ばせてほしい、もっと成長させてほしいと言っておきながら、今よりももっと給料をくれと要求していることの不条理さ。そんなマインドでは成功はおろか転職さえできないのだ。
では、なぜ多くの人は「覚悟」を持てずにいるのか。それは見えている世界にとらわれすぎて、見えない世界を感知する能力が低いからなのだ。つまり、想像力が欠如しているのだ。または自分自身を高く見積もりすぎて、エゴを捨て去ることができないのだ。近年、「覚悟」というと書籍の影響で吉田松陰を想起される方も少なくないだろう。「士は過なきを貴しとせず 過を改むるを貴しと為す」と詠んだ松蔭が理想としたのは、武士の生き方だったのではないだろうか。

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary books)
- 作者: 池田貴将
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士農工商という制度に守られていた武士は、なにも生み出さずとも禄があったが、その代わり、四六時中「生きる手本」であり続けなければいけなかった。武士は日常から無駄なものを削り、精神を研ぎ澄ました。俗に通ずる欲を捨て、生活は規則正しく、できるだけ簡素にした。万人に対して公平な心を持ち、敵にすら「介錯」という情けをかけた。自分の美学のために、自分の身を惜しみなく削った。目の前にある安心よりも、正しいと思う困難を取った。赤穂浪士をとっても、そうした武士の姿を見つけることができよう。つまり、彼らにとっては士道=死道といっても差し支えなかったのだ。
そうした松蔭の武士道は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とした山本常朝の『葉隠』の思想にも見ることが出来る。実際には武士としての生き様を説いた書なのであるが、侍がなぜあのような好奇な丁髷(ちょんまげ)というスタイルを重用したかといえば、いつ死んでも恥ずかしくないように、毎日月代(さかやき)を剃り、一片の悔いもない美しい死に顔を公然とさらせるように整えられた、一種の死装束だったからではないか。
そう考えると、弟子たちに学ばせるための教科書を夜なべしてしたため、ときに授業で声を震わせ涙ながらに教えを説いた松蔭の姿に私心というものはなかったからこそ、多くの門下生が感化され、維新の日本を背負うことになったのではないだろうか。彼らにはたして守るべきものがあったろうか。
また、現代人の想像力を考えてみたとき、あきらかに「直感」が鈍っているようにも思えるのだ。直感が働かないから、迷い、自信をなくす。直感とは感覚器官に基づくものなので、身体的な入力があってはじめて発動するものだ。しかし、ただ与えられたものを食べ、決まりきった身体操作に慣れ親しんだ身体は、もはや生命の危機であろうと、不意に訪れるインスピレーションだろうと察知できなくなっているのである。
仏教では高僧になるために千日回峰行という過酷な儀礼を経て、はじめて付与される階級が大阿闍梨なのだが、もっとも熾烈をきわめるのが足かけ9日間にわたる、断食・断水・断眠・断臥の4無行をこなす堂入りだ。9日間、一切の食べ物はおろか水や嗜好品のすべてを断つ。そうまでしてこの儀礼をこなすのは、神仏の声なき声に耳を傾けるためだ。食べ物という入力を断つことで本能が研ぎ澄まされ、やがて薄れゆく意識は神仏や自然とリンクしはじめるのだ。つまり、ここから云えるのは飽食の習慣性は理性ばかりを働かせてしまい、本能的な直感を低下させているということなのだ。
手前味噌な話で恐縮だが、俺自身も覚悟と向かい合ってきた。サラリーマン時代にはじめて年俸が大台に乗った年、年会費30万円もするブラックカードを手にした。いくら大台といってもやはりこの年会費は大きいし、かりに年俸が下がったり失職すればそもそも支払いさえ難しくなる。しかし、ここでひとつの覚悟をしたことで今の俺があるし、世の中の最上のサービスやもてなしを知ることができた。決断によって環境をつくったのだ。「覚悟」が持つ力は偉大なのである。
本能が呼び覚ます内なる声に耳を傾ける。想像力を駆使して、魂が喜ぶ方向性を見定める。迷うくらいなら、突き進む。そうした覚悟なくしては、環境も変わらなければ、望む成功を手中にすることはできない。
現代人よ、覚悟を磨け!